異文化との遭遇
子ども会で「夏休み工作の会」。ジョセフ・コーネルの作品の写真を色々見て、自分でも箱を作る、というもの。
グルーガンが大活躍。短い時間で皆それなりに作品らしいものになっていた。
工作の会は何度かしてきているけれど、年々、子どもの作品に手を入れる、あるいは率先して作ってしまうお母さんが堂々としてきている気がする。横で見ていてついつい手が出てしまう、というのはむしろ当然の心境だと思うのだけれど、もうちょっとこそこそするところではないかとか思ってしまうのだ。自分の思い通りに子どもに作品を作らせることに疑問を感じていないのだろうな。
そういう作品はたしかによくまとまっているし、きれいで破綻がないけれど、少なくともそういうふうな作品作りを通して工作が好きになる子はいないと思うんだけど。
春の連休のクラフトパークでは、子どもが低学年だと仕方がないかな…と思ったけれど、そういう問題ではない気がしてきた。お母さんの「よいものを作らせなくては」という意気込みがとても大きい。でも、目的を見失っている気がする。
そして、会が終わってから別口で出かけた先で、高校生のお子さんのためにお母さんが読書感想文を書いているという話を聞いてしまった。
「今年の分やっと書き終わってほっとしているのよ―。ちゃん太さんはたくさんお子さんいてすごくたいへんでしょうね」
「私夏休みに限らず子どもの宿題原則手伝わないから。自分も親にしてもらったことないし。
だいたい、宿題をしなくて困るのは本人で、私はちっとも困らないし」
こういう言い方はイヤミかもしれないとちょっと心配しつつも思うところを言ってみた。すると。
「…そうか、親にしてもらったことがない人ってそういう発想になってしまうのね。夫もしてもらったことなかったから私のこと過保護とか言うんだわ、きっと。私自身作文とか工作とかしたことなかった」
え、私いきなり彼女の中で「親に宿題してもらえなかったかわいそうな人」になっているよ!
驚いた。心底驚いた。異文化はこんなに身近にあったのだ。
夏休みの宿題のあれやこれは、長期のお休みを利用した、普段できないこと――作業だったりじっくりものを考えることだったり読み慣れない本を読んだり――をする絶好のきっかけだ。その機会を奪ってしまうことは宿題を忘れて叱られる(と子どもに泣きつかれる)よりもよほどこわいことだと思うのだけれど、美しい母性愛の前にすごすご退散するのだった。
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